JR東労組東京地本と横浜地本の機関紙、「自然と人間」2月号を読んだ駅で働く組合員からのドア挟まりについて寄せられた意見を掲載します。
事象については、本ホームページ・安全への挑戦「職場からのたたかい 見せしめ教育で安全は創りだせない!」を参照して下さい。
体罰教育を許すな!
昨年、矢向車掌区において、ドアに挟まれた「お客さまからの苦情」を受けた乗務員を乗務から外し、「ドアに挟まれたお客さまの気持ちが分かるか?」と、実際のドアに当該乗務員の身体を何度も挟み、ドア開閉を繰り返すという日勤(体罰)教育が行われました。
会社は乗務員の誤ったドア扱いによりお客さまに痛い思いをさせ、ご迷惑をおかけしたのは乗客サービスに反するという理屈で、基本動作を習得させるための「体感教育」だったとしました。乗務員が「わざとドアを閉めた」とでもいうのでしょうか?その列車に乗りたい全てのお客さまの乗降が完了し、誰一人ドアに挟まれることのないドア扱いなど可能なのでしょうか?閉めざるを得ない状況があるのではないでしょうか?乗務員に全ての責任を押しつけて、済む問題なのでしょうか?ホーム係員の視点からドア挟まりと駆け込み乗車の問題を検証しました。
ドア閉めはサービスか?
そもそも「ドアを閉める」という業務は、お客さまサービスの一環として行われるものなのでしょうか?車掌は「安全」のためにドアを閉めるのです。列車に乗っているお客さまとホームにいるお客さまの双方の安全の確保、命を守るためにドアを閉めるのです。若い車掌の中にはドア扱いをサービスと教えられている人も多いと聞きます。よく耳にする「一呼吸置いたドア閉め」など意味不明であり、空白の時間にさらなる駆け込み乗車を許すだけです。車掌は30秒停車の間、とぎれることのないホームの乗降状態の中で常に瞬時のギリギリの判断が求められているのです。
会社が求めている優しいドア扱い、心のこもったドア扱いなどできるはずがありません。一度ドアのスイッチを押せば、警告音と共に3~4秒でドアは機械的に、冷徹に閉まり、ホームと車内を遮断するのです。そこに情や心を挟む余地はありません。お客さまに気を遣い過ぎたら、途切れなく続く乗降で列車が発車できないという笑えない事態になると思います。どこかでお客さまには諦めていただくしかないのです。
苦情を分析する!
なぜお客さまは怒りや苦情を言うのか、内容を分析してみると、ドア挟まりに関する苦情はJR東日本全体で月平均10件程発生しています。苦情の種類は大別して、①整列乗車していたのにドアに挟まれたもの、②駆け込み乗車に起因するもの、の2つに分けられます。
①整列乗車したが乗れずにドアに挟まれた、とのケースをさらに分析
「並んでいるのに乗れなかった」や「スムーズな乗降に協力するために一旦ホームに降りたらドアが閉まった」などのケースを耳にします。その中でも多いのは、ベビーカーが挟まれるケースです。数10名程度の乗降ならともかく数百名のお客さまが絶え間なく乗降を繰り返す中、15秒~30秒で車掌にはドア閉めの判断が求められています。車掌は、目視やITVで確認していても、誰が乗りたいお客さまで、誰が次の電車を待つお客さまかなど判断がつきません。乗降が途切れた時点でドアを閉めるのは車掌の業務として当然であり会社もその判断を容認しています。
なぜ、ベビーカーが挟まれやすいのかは、ベビーカーを乗せる時は前の人にぶつからないように間隔を開けて乗ろうとしています。その間がドア閉めのタイミングと重なってしまうからです。
京浜東北線で、列車到着後10秒位ですぐ閉まって、ほとんどの人が乗れずに、「ええっ」とブーイングが起こったという苦情があります。そんな誇張めいた話があるはずがないと思っていましたが、私自身が実際に都内の駅で車中のお客さまが降りただけでドアが閉まり、周囲の人が誰も乗車できず、唖然とした経験をしました。その駅は、車掌が肉眼では確認できないホームの構造でした。
なぜこういう事が起きてしまうのでしょうか?
車掌の判断が悪いからではありません。こういう苦情があがる駅は乗降数が多く、構造上、設備上の弱点や問題を抱えています。現場から問題が提起されながら、対策が見えてこないケースも多くあります。ITVは完全ではないのです。
②駆け込み乗車、のケースをさらに分析
駆け込み乗車に起因するドア挟まりは、お客さま自身が駆け込みを自覚している場合と、自覚のない場合の2つに分けられます。
【自覚している場合】
「駆け込み乗車したら挟まれた」や「慌てて降りようとしたらドアに挟まった」など、そもそも自身の無謀な駆け込み乗車でドアに挟まれたにもかかわらず、「安全確認はどうなっている!」「JR東日本の責任だ!補償しろ!」「車掌(駅員)に謝罪させろ!」と苦情が出るのは、駆け込み乗車がどれだけ危険な行為で、鉄道事業者や他のお客さまが迷惑を被っているのかなど、駆け込み乗車の危険性を鉄道事業者側の周知が不足しているからでもあります。
【自覚のない場合】
駆け込み乗車はしていないと主張した上で「発車ベルが聞こえなかった」「放送がないのにドアが閉り挟まったのは安全確認を怠ったからだ」という苦情があります。そもそも電車発車間際のどの時点から「駆け込み乗車」になるのか?その定義はどうなるのか?発車ベルが鳴り終わった後というのが一般的な鉄道事業者の認識であると思いますが、お客さまの中には「ドアが閉まり始めていることを認識しながら、無理に乗車するのが駆け込み乗車」「走って乗ったら(歩いて乗るのはいい)」という認識の人もいます。発車ベルが鳴り終わったらドアはすぐに閉まるのか?乗降終了合図を待っている場合もあります。そもそも車掌が発車ベルを鳴らし終えて、乗務員室まで戻る時間もあります(大概「ドアが閉まります。次は○○に停車します」という自動放送が流れているが・・・)。その『間』こそが、駆け込み乗車のデッドタイムなのです。観察していると分かりますが、発車ベルが鳴り響いていたり、「ドアが閉まります」と放送するとお客さまは走って乗車しますが、空白の時間(デッドタイム)には焦ったり、慌てる素振りもなく実に悠然と乗車しようとしています。ドアが開いているのだから、私が乗れるのは当然とばかりに・・・。最近はヘッドフォンを着けながら、外の音を完全に遮断している人も多く、常にデッドタイム状態であり、ドアに挟まれるケースが多くなっています。
無理な乗車は自己責任!
会社は車掌がお客さまの立場に立って、サービス的なドア扱いを行えば、ドア挟まりや苦情がなくなると勘違いしています。これはグリーンハンドブック通りの対応をすれば、苦情や社員暴力を防止できるという論理と同じです。会社はもっとこの問題と向き合うべきです。お客さま性善説に基づいた対応だけでは解決できない時代です。
車掌がドア・スイッチを扱っても、扉が完全に閉まるまでは3~4秒かかります。ドアが閉まるのに気付いて、挟まれないように態勢を変えたり、乗車を諦めるには十分な時間です。にもかかわらず、手や足が挟まれるのはドアが閉まるのを阻止しようと手足を出すからであり、無理に乗車しようとするからなのです。
会社は駆け込み乗車を防止すべく、早急に対策に取り組むべきです。現状では、各駅に駅員を配置していますが、京急やりんかい線の車掌のようにハンドマイクを持たせて、ドアが閉まる前に「ドアが閉まります。ドア付近の方はご注意ください(無理なご乗車はお止め下さい)」と注意喚起を徹底して「免責」で自分の身を守るしかないのではないでしょうか。ドア挟まりは乗客の引きずりや転落事故の前兆です。一度そのような事故が発生したら、車掌も駅員も業務上過失致死傷罪という刑事罰に問われる可能性がある責任重大な業務であることを、私たちも肝に銘じなければなりません。ドアを閉め、列車を安全に発車させるということは、お客さまはもちろん社員の安全を守ることだという視点で考えなければなりません。ホーム上では、駅員・車掌・運転士は「サービス」に脇見することなく「安全」という輸送の使命を果たすことに集中すべきです。
ドア挟まりの苦情への会社の回答で一番多いのは、「本人は猛省している。指導が行き届かず恥ずかしい。厳しく指導した。申し訳ない」です。とにかく苦情を言った人をなだめることができるなら、平身低頭であらゆる自虐を厭わない姿勢があります。過度な低姿勢で「安全」という私たちが守るべき正しい業務も、お客さまサービスの名のもとにつぶされてしまっているのです。
先日、某駅を利用した時のこと
イベント終了で混雑するホームでの注意放送に私は自分の耳を疑いました(いい意味で)。列車到着前にしきりに「危ないので黄色い線の内側にお下がりください」とお客さまの安全を気遣う放送した後、なおも平然とホームの端を膨らんで歩く乗客に対し「なお動いている列車に接触した場合、【事故『自己!?』扱い】になりますのでご注意ください」との放送が流れたのだ。つまり「これだけ注意しているのだから、万一電車にぶつかって事故になったら、怪我をしても自己責任ですよ!」と暗に宣言したのです。私は感動しました。これが鉄道事業者のあるべき姿であると思いました。
どこの誰だか分からない信憑性のない苦情に振り回されている場合ではありません。「究極の安全」に向けて、お客さまの死傷事故0を達成するには、お客さまに対してもそれ相応の厳しさも必要なのです。安全は強い覚悟からしか生まれません。お客さま側に偏ったサービスへの偏重に警笛を鳴らします。
「安全」を守るため、組合員の力を結集し、職場から運動を創り出していきましょう!
*体感教育*
体罰問題が発覚してまもなく、1月26日、安全研究所が発行した「体験・体感型教育で感性を磨く」の中で「自分勝手な思い込みは事故に繋がる。現実をしっかり知ることが、重要な学習効果である。(痛みの)経験を知ることでルールや業務への理解が深まり、不安全行動をとらなくなる」と体感教育の重要性を説き、詭弁的説明をもって体罰を正当化しています。